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    第2回 農業法人巡り 豊肥地区 報告書

    日程: 2021年3月27日 土曜日 13:00~17:00
    場所: 豊後大野市
    主催: 大分県農業法人協会

    訪問先:
    1. 有限会社 お花屋さんぶんご清川 (清川町)
    2. 有限会社 育葉産業 (大野町)
    3. シセイ・アグリ 株式会社 (大野町)
    本行事は第1回目の好評により、連続開催が決定。
    行事名は大分の「農業法人巡り」と定まり、今後は県内の会員企業を次々と訪問することになりました。
    第2回目の今回は豊肥地区。桜が満開のこの日、コロナ感染への配慮から、参加者はマスク着用で、約30名が小型バス2台にゆったりと分乗して、静かな奥豊後を巡りました。
    記録 橋本文博

     

    4. 有限会社お花屋さんぶんご清川
    説明者: 代表取締役 小久保恭一氏、鈴木教仁氏、鈴木 恵氏
    バスが到着したのは、大野川源流の奥岳川を遡った清川村。そこに、軒高5mの本格温室が連なる、国内屈指のキク生産のメッカがありました。
    キク生産といえば、愛知県渥美半島が日本一ですが、同地で先駆者であった小久保恭一氏は、新天地を求めて、平成16年(2004年)に大分県に入植。施設園芸が高密度になり過ぎて、土地利用や経営面に制約の多い渥美半島を離れ、新たな展開を志しての入植でした。
    同社の前身は、愛知県の「農事組合法人出荷組合お花屋さん」。小久保氏が代表となり、周辺の生産者と共同してブランド化を行ったものです。その後有限会社となり、現在では愛知と大分の産物を組み合わせて販売。グループ全体の売上は20億円超となりました。
    これまでキク分野の担い手育成にも取り組み、豊後大野市では10名ほどが「のれん分け」して独立。地域内でキクを生産しては、同社を通じて販売しています。大分県でのグループの規模は発足時の9,000坪(3ha)から、現在は10,000坪(3.5ha)へ。
    生産品目は葬儀に使われる白い輪菊に特化し、2台の選花機が常時稼働。葬祭場にとって重要な日持ち性の良さと品質の良さが産物の人気の秘訣。熱帯夜の少ない標高200mの清川の気候と、十分な投資による高軒高の温室により、真夏も含めて、安定した周年供給を行っています。
    これにより流通関係者からは高い信頼を得て、常に注文が集まりやすい産地になっています。

     

    5. 有限会社 育葉産業
    説明者: 代表取締役 栗田洋蔵氏
    東九州道の大野IC近くの丘に登ると、17連棟の大型ガラス温室ひとつと選果場。一見シンプルながら、高集約で売上1億4000万円を産出しているのが、ミツバの生産農業法人、有限会社育葉産業です。
    入室すると、テーブル状のプールになった水耕栽培設備は、まるでミツバの海。広い場内にあるすべての株は、瑞々しく均質。参加者から驚嘆の声が漏れます。
    センター通路以外は作業通路が不要な間取り。プールの仕切りの縁を歩きながら作業ができる補助器具や、浮かんだ樹脂板をロープで引き寄せる装置など、栗田氏の手作り設備は発明大賞を思わせます。室内は清められたように美しく、7,300㎡の室内にある作物の管理は作業者2名で賄っているとの話に、再び驚きの声。
    栗田氏の前職は、約15年にわたり産業制御機器のシステムの設計者でしたが、大分市のミツバ生産の先駆者であった父親の跡を継ぐ決意に至り、縁あって大野町に農地を得て施設を作りました。生産開始間もなく父親が病魔に倒れその半年後に他界のため、栗田氏は父親からの引継ぎが不十分なまま、新規就農同然でスタート。
    このような苦労から、栗田氏は新規就農者の互助組織 「アグレッシュおおいた」 を発足し、若手農業者が毎年集まる勉強会を開催。継続21年目を迎えています。
    平成4年(1992年)に温室が新築された際は、建物及び栽培施設は専門の会社が設計したものの、環境制御などの設備は栗田氏が自ら設計。稼働後も着々と改善を重ね、緻密な運営のもと、洗練された職場がさらなる進化を続けています。

     

    6. シセイ・アグリ株式会社
    説明者: 代表取締役 衛藤 勲 氏
    吉田松陰の言葉、至誠を冠して創業した衛藤 勲氏。 現在白ネギ12haを柱に、サトイモ、サツマイモ 甘太くんなどを複合した農業を展開中です。
    先代は、袋詰め堆肥で県内一を誇る衛藤産業を興し、自動車整備工場も創業。先々代は大陸からの引き揚げ後に、穀物、林産物などを地域から交易させる運送業を興してきました。
    時代の変化に応じて新たな事業に挑む気質は、代々受け継がれたものかもしれません。
    勲氏は、先代までの堆肥頼みではこれから食べていけないと予感。農業生産に参入したのですが、核となる作物の選定には試行錯誤がありました。数年がかりで、地域の気候や自社の労力配分に適った現在の複合体系を確立し、夏場も十分な白ネギが出せる産地として、存在感を高めています。
    農業生産そのものに挑むのは勲氏の代が初めてですが、先代までに蓄えられた土づくりの感覚や、農業機械を自社で整備し、オリジナルな改造を施せるのは、他社に真似できない強み。 先代までの取り組みが、いまも次世代を支えています。
    選果場見学ののちにバスで圃場へ。 夕暮れの丘陵地には、青々とした健康的なネギが視界いっぱいに広がっていました。